このニュースレターは基本無料でお送りしております。現在は1週間ごとに、全員閲覧可能なレターと有料会員限定のレターをお送りしています。詳しくはこちらをご覧ください。
下記にメールアドレスを入れて「Subscribe」を押し、一番右の「None」を選んで、届いたメールから確認リンクを押していただくと無料登録完了です!
今回は一部有料(SNSやめる部員向け)の回です。途中まで無料でも読めます。
人と話してかえりみる
昨日から北海道内の旅に出ている。現在は知床の斜里町にいます。
妻の地元・旭川に寄り、わたしの地元・遠軽に泊まり、友人のいる湧別町を通り、網走で入院している方を見舞い、斜里町へ。片道およそ400kmの旅。ほんとうは年始にやる予定だったのだが、年始はインフルでダウンしてしまったので2ヶ月越しの旅。地元・オホーツクでお世話になっている方々に何人も会い、子連れながらもちゃんとお話ができて、とってもうれしい。
北海道に戻ってきて5年になるが、最初の2,3年はオホーツク方面でがんばって活動していた。オホーツクには北海道に帰ってくる前からお世話になっていた人も多い。当時の話もしたりして、自分の原点を見つめ直すような機会にも感じている。
いま斜里で泊まっているのは、北海道に帰ってくる前から始めた民泊「オホーツクハウスしゃり」だが、2019年7月にひとり東京と往復しながら準備して、宿に検査が入る日の朝5時まで、ひたすらひとりで開梱作業をした日のことを思い出す。当時は28歳だったが、もう34歳になった。当時想像していた34歳はもっと違った形だったと思うが、これはこれでいいものだとも思う。
改めて会った方々に自分の最近を説明する中で、この2,3年を自分で言葉にして話すことにもなった。改めて言葉にしてみると、いろいろな自信を失い、あちこちで勉強させてもらうような時間を過ごしていたことに気がつく。その結果、やっぱり自分は誰かのもとで働くことが本当に苦手で、もう「自分でやる」ということしか選択肢が残されてないことにも気がついた。でもこの「自分でやる」は、過去やってきた「ひとりでやる」とは違うタイプのものだ。
最近気がついたことは、これまでずっと人間関係を人任せにしていた部分があったな、ということだった。自分はやりたいことに対しては突き進むタイプだが、それ以外のことに関心を向けることが本当に苦手で、「人間関係を築く」ということも含めて関心を向けてこなかった。
その結果、やっと最近になって、「集まりを主催する」とか「場を盛り上げる」とかを自分から全然やっていないことに気がついた。もちろん誰もがそうある必要はないかもしれないが、自分が「リーダー的な振る舞いが苦手である」ということの根本はここにあるのかもしれないとやっと気がついた。
根深いのは、これがまったく自覚的な振る舞いでなかったことである。むしろ「なんか変にやって迷惑かけたら申し訳ないな」とか、「ここではちょっと様子見たほうがいいかもな」とかの気持ちが先立っていて、自分の中では善意に基づいた振る舞いだと思っていたので、本当に根深い。そんな人間に人はついていかないし、むしろ迷惑かけようが空気読んでなかろうが、そういう動きを生み出す人間に人はついていきたいものである。
逆に過去の自分は、空気を読まない言動を個人でおこなうことはできたので、そこに謎のバイブスは存在していたのだろうと思う。仲間と一緒にやるわけではなかったので、応援してくれる人はいたが、やるのはいつもひとりだった。そんな自分をずっとなんとかしたいと思っていた。
最近は、たとえ瞬発力に欠けても、たとえコミュニケーションが煩雑になっても、自分ひとりで進みすぎずに、人とコミュニケーションを取りながら進む、ということをいつも考えている。すこしずつ動き方ややっている内容が変わってきているような気がしている。これはとてもうれしい。
人任せにしないために
1ヶ月前に「最後までやりきれないことがコンプレックス」だという話を書いた。でもこれもいま考えると、自分の人生を人任せにしてきたから、だったのかもしれないとも思う。これまでいろんなことに取り組み、なにか芽が出る可能性をひたすら探り続けてきたが、やっぱりというか当然というか、ある程度までいくと「しっかり向き合うかどうか」の勝負になってくる。
自分なりにはそのときどきでしっかり向き合ってきたし、ベストは尽くしてきたと思うが、「ベストを尽くしてダメならあきらめる」という考えは、「続けるべきか否かは結果だけで判断する」ということで、それは見方によっては人任せだったのかもな、とも思う。
妻が「転職を繰り返してきた会社のメンバーが、やっぱりなんかやり切る力がなくて、仕事のクオリティが低い」という話をしていた。なんだか身につまされるものがあった。でもそれは本人もどうしたらいいのかわからないんだろうな、と思った。
しっかり向き合うかどうか、最後までやり切るかどうかが命運を分けることも多くある。当然自分は約束したことは基本的に最後までやり切ってきたし、自分の考える範囲で中途半端にやったこと、故意に約束を破ったことは一度もないといえる。
でもいま考えると、自分の考えるそれはあまりに短期で、長期的なコミットが必要なものでやり続けてこれたことはあまり思いつかない。それが結果に結びつかなったり、「やりきってない」ように傍から見えたことも多くあった。完成したモノはよかったけど、それを自分の意志でしっかり広げられなかったり、その結果他人にいいように利用されてしまっただけのことも何度もあった。
人生、長期的にコミットできることなど限られる。やりたいことがたくさんあったとしても、そのすべてを高いクオリティでできるとは限らないし、1つだけでも本当に難しい。だったら、絶対にやりきると決めるものを持つしかない。「たまたま誰かが評価してくれるものに出会うまで数を打つ」という人任せなアクションができるのは若いうちだけだ。
新しいスキルを学ぶのも難しく、子育てなどで可処分時間が少なくなるならなおさら、自分で腹を決めてやるしかない。他人にいいように扱われないように、自分の譲れないラインをしっかりと持ち、そこを全力で守るしかない。もう人任せにしたくないし、人からされたことで怒りたくないし、恨みも持ちたくないから。
殺されないために殺す覚悟
おれはただただ「できるだけいいものをつくりたい」だけなのだが、世の中にはその気持ちを利用するだけ利用するカス野郎があちこちにいるものである。単なるすれ違いとか、自分もやってきたからすべて非難するつもりはないが、あんまりなやつをいつか懲らしめられるだけの力が必要だなと強く思う
そのために決めなきゃいけない覚悟や腹というのもあるとやっと最近わかってきた、こういう悔しさも「人と一緒にやる」ということがそんな簡単なことじゃないとやっとわかってきたから思えることかもしれない
Keep reading with a 7-day free trial
Subscribe to SNSやめるクラブ to keep reading this post and get 7 days of free access to the full post archives.